2019/09/13 16:10 372PV

野球留学を経て見つけた理想の『ベースボール』。イップスと向き合い続けるベースボーラーが語るスポーツの価値とは。【スポタス人インタビュー】

インタビュー

皆さんは『イップス』と言う症状をご存知でしょうか。

イップスとは、精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、突然自分の思い通りの動きや意識が出来なくなる症状のことです。例えば野球のピッチャーであれば、イップスによってストライクが取れなくなったり、ゴルフであればパッティングが全くできなくなったり、症状の出方は様々です。

今回は、そんなイップスを抱えながらも理想のベースボールを追い求めるスポタス人にインタビューを行いました。

スポタス人とは

スポーツだけではなく、プラスアルファの形でスポーツと関わるキラキラした人物。

スポタスでは、『スポタス人』のインタビューを通じてスポーツとの様々な関わり方を発信しています。

スポタス人紹介

吉田浩幸

1995年 兵庫県生まれ 小学生から硬式野球を始め、中・高・大とプレーする。ポジションはピッチャーだったが、高校時代にイップスという困難にぶつかる。

野球との出会い

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赤木:野球を始めたのってどんなキッカケがありました?

吉田さん:野球を始めたのは小学校2年生の頃なんですが、母に連れられて地元の少年野球チームに入った事がキッカケでした。その頃は友達作りが苦手で、そのキッカケとして入団した形です。

赤木:自分からやり始めた訳じゃないけど、続ける事ができたんですね。

吉田さん:私は姉が2人いる末っ子で、遊ぶ相手は姉の友達だったんですね。それでかけっことかやるんですけど勝てなくて、頑張っても褒めてはもらえなくて。でも野球は結果だけじゃなくて頑張って練習してたらその頑張りを認めてもらえたんです。それが嬉しくて。

元々自信の無い子供だったからこそ、野球っていう自分を認めてくれる場に出会えた事でそこに没頭するようになりました。

赤木:原体験と言うか、子供の頃にそういう体験をしていると大きいですよね。

吉田さん:はい。人の価値観を決めるのは幼少期だと思っていて、今の私の価値観も根本にあるのはこの時期の体験ですね。

赤木:練習はどれくらいされていました?

吉田さん:練習は毎日していて、土日には試合をしている感じでしたね。小学校3年生の途中までは地元のチームでやっていたんですけど、そこからよりレベルの高いリトルリーグに入団しました。リトルリーグは中学校1年生まで入れるんですが、その時で関西大会6位に入れました。

赤木:その頃なら、体の成長もありますし、練習するだけ自分が上手くなる実感があったんじゃないですか。

吉田さん:そうですね。小学校時代は努力が結果に繋がりやすい時代だったと思います。やればやるほど上手くなるのが実感できましたね。これは野球だけじゃなくて、小学校1年生の頃は同学年の女の子にかけっこで負けたりしていたんですけど、野球を頑張っていたら小学校で一番速くなる事ができました。

赤木:ポジションはどこを守っていたんですか?

吉田さん:最初はセカンドやサードを守っていましたが、背が高かったのでリトルリーグに入ってからはピッチャーをやっていました。打順は4番を打っていました。

ヤングリーグでの想い出

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赤木:リトルリーグを卒業してからも野球を続けたんですね。

吉田さん:はい。リトルリーグを卒業した後ヤングリーグ(中学生の野球リーグの一つ)に入って、ここでもピッチャーをやっていました。

赤木:ヤングリーグのチームは強豪だったんですか?

吉田さん:強豪と言う訳ではなかったですね。少なくとも他の強豪チームより人数は少なかったですし。それでも団結力だけは負けて無かったと思います。誰かがミスをしても皆で取り返そうって意識が強くて、少ない人数だからこそ、お互いにフォローして勝に行くチームワークを感じる事ができました。結果、全国大会まで出場する事ができました。

赤木:なるほど。小学校の時は個人としての成長を楽しみに野球と関わり、中学ではチームとしての野球の楽しみを得る事ができたんですね。

高校時代、強豪高に進学してから

赤木:高校は強豪校を選んで入学されたんですか?

吉田さん:そうですね。ただ、勉強も両立したかったのでどちらもレベルが高い高校を探して、関西学院高等部を受験して入学しました。

赤木:文武両道だったんですね。でも中学の時と規模が全く変わってしまったんじゃないですか?

吉田さん:そうですね。リトルリーグでは同級生が8人くらいだったんですが、高校になると一気に68人になっていました。全校生徒900人中150人が野球部でしたので、雰囲気は全く変わりましたね。

順風満帆だった時期から一転してイップスに

吉田さん:最初は活躍できていたと思います。1年生で3年生の試合にもピッチャーで出してもらったりしていましたし、普通はその時期って声出しとか走り込みとかやってる時期でしたから。

赤木:順風満帆だったんですね。

吉田さん:でも1年生の夏が終わって、新チームができて状況が変わりました。周囲のプレッシャーや、監督の方針があったのかもしれませんが、投げても投げてもボールワンバウンドしたり、バッターの頭を越えたりなど自分が意図しない方向に投げてしまうようになったんです。

赤木:そこでイップスになったんですね。。監督の方針って、厳しい感じだったんですか?

吉田さん:例えばフォアボールを出したら即交代と言うような方針でしたね。このイップスがどうしても克服できなくて、ブルペンでの投球練習や、マウンドでの最初の練習はちゃんと投げられるんです。でも、バッターが立った瞬間にワンバウンドしてしまう。自分でも何でそうなるのか全く分かりませんでした。

赤木:ピッチャーというポジションでそれはきついですね。。

吉田さん:しまいにはキャッチボールもできなくなってしまって、野球塾などにも行って一時的に良くなったりはしたんですが、根本解決はできずにすぐ再発したり。あの頃はいつ辞めようかと考えたりしていました。

赤木:人数の多い部活で、しかもピッチャーって言う花形のポジションですからね。精神的なダメージは相当大きかったんじゃないですか?

吉田さん:そうですね。これが怪我だったら分かりやすいんですが、目に見えないから難しくて、周りも『思い切り投げろよ』って言うだけだったりするんですよね。3年生になってもイップスが克服できなかったので、野手に転向した時期もありましたが、さすがに野手としてはレギュラーに入れる感じでも無かったですし。

赤木:悩ましいところですね。。

吉田さん:『なんで自分だけ…』って思いましたね。正直その頃はあまり良い思い出は残ってなくて、唯一学んだ事は『努力はそう簡単には報われない』という事でした。

赤木:でも、そこまで経験したら普通は『努力は報われない』となりそうなところなのに、踏みとどまっていられたのは凄いですね。

吉田さん:細かい点では努力が報われたと思えた事は有ったので、諦めはしなかったですね。やっていればいつかは何とかなると思い続けていました。

イップスを抱えながらも大学野球部へ

インタビュー

赤木:それでも大学で野球部に入ったんですか?

吉田さん:はい。内部進学で大学に入って、野球部に入部しました。イップスについても何とかしようとして、関東にイップス研究の有名な人がいると聞いたのでバイト代を貯めてその人の所に教えを受けに行ったりしました。

赤木:部活動引退直後にバイトして、そのお金で勉強のために関東に行くって凄いですね。

吉田さん:その方に言われたのが、『今の自分を認めてあげる事が重要』ということで、初めて自分のメンタルと向き合いました。今まで『自分はもっとできるはず』という想いが強くて、それが逆に自分を縛っていたんです。『今の状況を受け止めて、その上でもっと自由に表現できるようにしよう』と考えるようになりました。その他にも、催眠療法などやれる事は全てやりました。

赤木:凄く徹底していますね。

吉田さん:とにかくやった事が成果になって欲しかったんです。その拘りだけは残り続けました。でも、今思うとそれもイップスに繋がり続けていたんじゃないかと思います。

赤木:それだけの事をやっても、イップスは克服できなかったんですね。

吉田さん:大学の野球部は高校よりも更に周りのプレッシャーが強くて、それがイップスを更に強くさせていたんだと思います。スポーツに限った話じゃないと思いますが、人の人生って周りの環境で大きく変わると思います。

野球は好きだし野球チームも好きなんだけど、『野球部』と言う組織に対してモヤモヤしたものを持っていました。

退部して出会った『アメリカンベースボール』

吉田さん:その後、大学2年生になって野球部を辞めました。大学1年生の時は雑用が多いんですが、2年生になるとそれも1年生に引き継ぎます。そうなると、そこから実績を出して更に上を目指すか、部のサポートをするかの道に分かれるようになります。

そんな中で、これ以上自分にできる事は無いと感じて、野球部を辞める事にしました。就活とかを考えたら卒業まで居続けた方が良いのは分かっていたんですけど、そんな理由で残り続けるのは嫌でしたし。

赤木:部のサポートと言っても雑用は1年生がやるわけですしね。

吉田さん:そんな時、友達がクラブチームの立ち上げをやっていて、そこに誘ってもらいました。アメリカンベースボールというスタイルのクラブチームで副キャプテンでポジションはショートでした。

赤木:アメリカンベースボールですか?

吉田さん:簡単に言うと、勝つ事に対して本気で取り組みながら楽しむスタイルです。

部活動は初めに組織ありきで、そこからどう野球をやるか、どう勝つかを目指すイメージですが、アメリカンベースボールは野球をあくまでスポーツとして捉え、勝ちに向かって合理的で効率的な練習をするイメージです。

赤木:高校~大学の野球部とはかなり違っていますね。

吉田さん:他のチームメイトも野球が好きだけど野球部が嫌になったようなポテンシャルの高いメンバーで、他のクラブチームと試合しても勝てるようなチームになっていました。そこで本当のスポーツの形を感じて、本場アメリカに興味を持ちまして、4年生での野球留学に繋がります。

野球留学

赤木:野球留学は4年生の時にされたんですね。

吉田さん:はい。知人に野球留学のエージェントがいて、アメリカのクラブチームへの入団手配してくれました。期間は3週間程でしたが、とても学びの多い時間でした。

赤木:本場のアメリカンベースボールで印象に残ってる事とかありますか?

吉田さん:まずは色んな国の選手がいて、それぞれ個性が全然違っていた事ですね。例えばドミニカ人はバッティングの待ち時間で音楽流しながら踊ってるんですけど、いざ練習になると凄く熱心にやるんです。バッティングも、最初は全くの空振りしているところからすぐに調整して大きなホームランを打つなど、やっぱり海外のスケール感は凄かったですね。

赤木:カルチャーギャップは多そうですね。

吉田さん:日本人から見ると向こうの選手って地道な練習をしないイメージって無いですか?でも実は彼らは凄く地道な練習をしてるんですよ。ただそれが根性を付ける為とかではなく、競技に必要なフォームやリズムを体に覚えさせる合理的な練習です。例えばノック練習なら一定のリズムでボールを取らせたりですね。

バッティングもただスピードの速いバッティングマシーンを使うんじゃなく、フォームを固める為に正面からトスを上げてボールを打たせるんです。

赤木:確かに、アメリカって言うと合理主義的なイメージが強いですが、練習に対しても理論がしっかりしているんですね。

吉田さん:例えば日本代表とアメリカ代表が野球で試合すると、ジュニア時代までは日本人って強いんですよね。でも大人になってからそれが逆転する。筋力に差が出ると考える人も多いですが、野球は技術のスポーツなので、本来は日本人にもアドバンテージはあるはずなんです。実際、私も3週間しかいませんでしたが、日本にいる時より上手くなっている実感がありました。

インタビュー

インタビュー

▲留学先でのシーン

これからの展望

吉田さん:私は野球が好きですしスポーツも好きです。野球をする事によって『努力』『スポーツマンシップ』『チームワーク』といったものを学ぶ事ができました。

赤木:今までの経験から得たものですね。

吉田さん:でも、スポーツで学んだ事が『組織の理不尽をどうやりくりするか』だったりするケースもあって、そうはあって欲しくないと思っています。そして何より、スポーツは楽しんでやるものだと思っています。

これからは一人一人が自分で生き方を決める時代だとよく言われます。その為の教育としてスポーツが機能するはずだと思っています。

赤木:確かに、身体性を伴った学びはスポーツならではですね。

吉田さん:はい。私はスポーツを通じた教育を事業化して、スポーツを楽しみながら一人の人間としての生き方を学べる人達を増やしていきたいと思っています。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

小学校から好きだった野球が高校から変わっていったエピソード、イップスに苦しみ抜いた日々、アメリカンベースボールの出会いとこれからのスポーツ教育。

吉田さんさんのインタビューはとても胸に刺さるものがありました。

スポタスでは『スポーツ+何か』を持ったスポタス人をこれからもご紹介していきます。

この記事の記者紹介
スポタス編集部

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