2019/07/30 16:47 1445PV

【スポタス人インタビュー】『人生の岐路にはいつも陸上ホッケーがあった』現役人材エージェントが語る陸上ホッケーと人の繋がりについて

インタビュー

スポタス人とは

スポーツだけではなく、プラスアルファの形でスポーツと関わるキラキラした人物。

スポタスでは、『スポタス人』のインタビューを通じてスポーツとの様々な関わり方を発信しています。

今日は陸上ホッケーのスポタス人をご紹介します。

【山下 純佳】

1992年 京都府生。幼少より陸上ホッケーに親しみ、全中ベスト3に入る。高校・大学と陸上ホッケーを続け、大学ではインカレベスト8に。社会人になってからも陸上ホッケーに関わり続けている。

陸上ホッケーについて

赤木:陸上ホッケーって、最初見た印象で言うとスティックを使ってやるサッカーみたいな感じかなと思ったんですけど、そういう印象で合ってますか?

山下さん:そうですね。ラクロスに例えられる事もありますが、ラクロスは空中でボールを保持するのに対して、ホッケーは地面にあるボールをドリブルするので、サッカーに近い競技だと思います。

ルールもサッカーに似てて、キーパー以外の人が直接手でボールを触るのはNGだったり、昔はオフサイドもあったりしました。

▲陸上ホッケーのルールについてはこちらの動画が分かりやすいです。

 

ホッケーとの出会い

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赤木:陸上ホッケーって、特別なキッカケがないとなかなか始める事って無いと思うんですが、そういうキッカケってあったんですか?

山下さん:実は大きなエピソードがあったと言う訳じゃなくて、たまたま地元で国体が開催された事があって、ホッケー会場が自分の町にできたんです。

それ以来、地元ではホッケーが盛んで、中学の後輩はオリンピック代表に選ばれていますし、妹もインカレで優勝して今は実業団にいます。

赤木:後輩がオリンピック選手で妹さんがインカレ優勝って!町を挙げて選手育成してるみたいですね。

山下さん:大学の時に妹の大学と対戦する事があって、妹が私のマークについたんですが、ボコボコにやられました(笑) 周りも姉妹だって分かってるから、それも含めて面白い絵になってましたね。

そんな感じだったので、私も小学生の頃からホッケーを始めました。

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▲小学校時代の写真です。凄く楽しそうにプレーしているのが分かります。

実は辞めるつもりだった中学校時代

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山下さん:実は中学になったらホッケーは辞めるつもりだったんです。

赤木:そうなんですか?

山下さんそれでも続けたのは、小学校の先輩から勧誘の手紙をもらったからだったんです。それもルーズリーフ3枚分の 笑

赤木:凄く期待されてたのが分かりますね。

山下さん:中学ではポジションはゴールキーパーに挑戦しました。このホッケー部は本気で勝ちにいくスタイルで、私が現役の時は全国3位、西日本では負けなしのチームでした。

高校では絶対にホッケーをしないと決めていた。

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赤木:それで高校もホッケーの強豪校に行ってインターハイを目指したりしてたんですか?

山下さん:いえ実は高校ではホッケーやらないつもりだったんです 笑

赤木:そうなんですか!?

山下さん:実は国際交流に興味があって、国際交流の学科がある学校を志望しました。高校で最初に入った部活も茶道部でしたし。いつか外国の方に日本の茶道を教えたいと思って。

赤木:全国3位のホッケー選手から大きな転身ですね。

山下さん:むしろホッケーだけは絶対にやらないって決めてました 笑

私のいた高校ってホッケー部が強くなくて、地元のメンバーとかと試合したら間違いなくボコボコにやられてしまうので。

赤木:でも結果的に高校でもホッケーを続けたんですよね。

山下さん:キッカケは1年生の時、ある試合に助っ人で呼ばれて参加したんですけど、その時のポジションがフォワードで。

赤木:自分がキーパーやってたから相手の動きが良く分かるとか?

山下さん:むしろ逆で、キーパーの時にプレーヤーに色々指示してたのに、いざ自分がフォワードになると凄く難しいって事に気付いたんです。

中学の時のプライドがあるから、それが凄く悔しくて、でもその難しさも面白いって思えるようになったんです。

赤木;難しいのが面白いって思えたのは大きいですね。じゃあ国際交流はストップしてホッケーに入り込んだんですか?

山下さん:国際交流は並行してやっていました。留学生の受け入れだったり、オーストラリアにホームステイしたり、シンガポールやマレーシアに研修旅行にも行ってその時に外国の方に茶道を教える事ができました。

赤木:そっちのやりたい事も並行で叶えていたんですね。ホッケー部の方はいかがでした?

山下さん:ホッケー部は強豪校じゃなかったし、人数も足りない感じだったんです。でもコーチの方針が凄く良くて、『楽しまないと上達しない』ってスタンスだったんです。

1人しか練習に来れない日でもコーチは来てくれて、コーチも混ざって一緒に練習したりしていました。

赤木:私も中学の卓球部が2人しかいなくて、コーチ含めて3人で練習まわしたりしてたので良く分かります。ああいうのって、人数が揃ってない中でのクローズな楽しさみたいなのが有るんですよね。

山下さん:中学の時はひたすら上を目指すスタイルだったのが、ここで初めてホッケーを楽しむ、皆で楽しむってマインドに変わって、これは私の今の価値観にも強く繋がっています。高校時代のコーチには本当に感謝です。

そして大学進学

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赤木:それで大学でも楽しむスタイルのホッケーを目指したんですね。

山下さん:いえ、大学ではホッケーを続けるつもりはありませんでした。

赤木:またですか 笑

続ける気はなかったのにずっと続いているって面白いですね。

山下さん:高校のホッケー部では人数が少なかったんで、組織だった練習ができなかったんです。それだと大学では通用する訳ないと思ったんで、続けようとは思わなかったんですね。

赤木:続いたキッカケって何かあったんですか?

山下さん:高校の時に同志社のホッケー部と対戦したんですけど、そのチームってホッケー初心者ばかりのチームだったんです。でも凄く強いチームで、雰囲気も凄く良かったんです。それで『このチームでホッケーをやりたい』って思うようになって、同志社女子大学を受験しました。

この頃も国際関係の興味は持ち続けてたので、学部は国際関係のゼミがある現代社会学部を選びました。

赤木:そこも大きな軸として持ち続けていたんですね。

ホッケー漬けの大学時代

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山下さん:大学は実家から通ってたんですけど、凄く遠かったんです。最寄り駅まで車で20分かかるところでした。そこから京都駅まで行って、更に近鉄電車で大学の最寄り駅まで行って、片道2時間かかってました。

赤木:それって凄く辛かったんじゃないですか?

山下さん:実は全然辛くなくて、周りもそれが普通だったから何とも思ってなかったんです。むしろ通学時間が自分のプライベートな時間って感じで、その間に宿題やったりゲームしたりホッケーノート書いたりしていました。

赤木:ホッケーの練習は大体どれくらいあったんですか?

山下さん:アップと片付け含めて4時間くらいですね。大体7時半くらいまで練習して、大学でご飯食べて家帰るのが23時くらいという日々でした。

赤木:まさにホッケー漬けの毎日ですね。練習はどんな感じでした?

山下さん:ホッケー部のコンセプトが『組織力で勝つ』って方針で、連携の練習が多くありました。だからなのか、周りに頭良いなと思う人が多くて色々と勉強になりましたね。大学では全国ベスト8まで入る事ができました。

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▲大学時代の1枚

そして社会人に

赤木:社会人になってからはホッケーを止めようと思ってたんですか?

山下さん:社会人ではホッケーは何かしら続けていきたいと思っていました。

赤木:ここでは続けようと思ってたんですね 笑

山下さん:東京配属になったんですけど、会社の先輩の旦那さんがたまたまホッケー部で、ホッケーの社会人サークルを紹介して下さったんです。

他にもレベルの違うチームに入ったり、あるチームの庶務みたいな形で関わったりもしています。

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▲社会人チームでの試合中の1枚。インタビューの時と違った、戦う表情が印象的です。

ホッケーの魅力

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赤木:ここまで色んな角度でホッケーに関わられたと思うんですが、その上で感じるホッケーの魅力って何だと思います?

山下さん:人と人の繋がりが生まれやすい点だと思います。

これはホッケーに限らずかもしれないですが、マイナーな競技だからこそ、やってる人達が大体知り合いだったりするんです。ホッケーの仲間、対戦相手が後の会社の後輩になった事もありますし。

赤木:山下さんのホッケーとの関わり方って凄くユニークですね。上を目指すとかって言うよりも、ホッケーを通じた人との関わりによって人生が豊かになってる感じと言うか。

山下さん:そうですね。これは国際交流に関心があった事にも繋がるんですが、今の仕事を選んだきっかけって色んな価値観・文化を知りたいって理由と、ホッケーを通じてチームの役に立つ喜びを感じた事が大きいです。

ホッケーは私にとっての全てじゃなく、価値観を作る大きな要素であり、人との繋がりそのものなんだと思っています。

まとめ

いかがでしたでしょうか。

様々な形でホッケーと関わり続ける姿は、私達とスポーツとの関わり方を考える上でも大きなヒントになるのではないでしょうか。

スポタスでは『スポーツ+何か』を持ったスポタス人をこれからもご紹介していきます。

この記事の記者紹介
スポタス編集部

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スポタス人とは スポーツだけではなく、プラスアルファの形でスポーツと関わるキラキラした人物。 スポタスでは、『スポタス人』のインタビューを通じてスポーツとの様々な関わり方を発信しています。 高田 遼 1991年 浦和生まれ 社会人クラブ『FC.BANDELIE(バンデリエ)』所属 幼少期よりサッカーを始め、小学校~高校まで大きな戦績を上げ続ける。 大学ではサッカー部を退部した後ドイツへサッカー留学、帰国後は所属するフットサルチームでミャンマーのA代表との親善試合に選抜される。 社会人になった後、FC.BANDELIEでキャプテンを務める。   サッカーを始めたきっかけ 赤木:サッカーはいつから始められたんですか? 高田さん:幼稚園の年中からですね。通ってる幼稚園にサッカークラブが有って、友達がやっていた事もあって私も始めました。私の出身地である浦和はサッカーが盛んで、各幼稚園にもサッカークラブがありました。 赤木:確かに、浦和は100年以上のサッカーの歴史があるって言いますし、小さい頃からサッカーが当たり前にある環境なのも分かりますね。 高田さん:小学校では地元の少年団に入りながら、5年生時からはFC浦和という浦和の選抜チームも所属していました。 赤木:少年団と選抜チームの両方に入っていたんですね。 高田さん:はい。皆、各小学校の少年団に所属してますが、その中でセレクションがあり、FC浦和という選抜チームが結成されます。一つ上の代では全国大会で優勝している強豪チームでした。私の代は県予選で負けてしまったんですが、そのチームが全国優勝しましたね。ちなみにそこには現日本代表の原口元気選手もいました(笑) 赤木:後の日本トップ選手じゃないですか(笑)それは厳しい。 中学時代 赤木:中学はサッカーの強豪校に入ったんですか? 高田さん:中学は学区内の学校のサッカー部に所属をしました。 埼玉県大会で優勝するようなチームでしたし、少年団から一緒のメンバーが集まっていたのでさらに絆が強くなりました。 赤木:いきなり強豪校になった感じですね。 高田さん:練習量がとにかく多くて、朝錬・放課後錬とやった後、一度帰宅して今度はフットサル場で夜錬をやっていました。1日3部練…笑 そのお陰もあり、埼玉県大会で優勝したり、東日本大会でベスト8までいくことが出来ました。 赤木:凄いですね、、それだけサッカー漬けだったら勉強とかする暇なかったんじゃないですか? 高田さん:実はサッカー部には意外と勉強できる子が多かったんです。 勉強ができないと走らされたり坊主にしなければいけない事もあったので、普段の授業とテスト週間だけ切り替えて集中的に勉強していましたね。 高校時代 高田さん:高校はサッカーで選びました。浦和南高校という、漫画のモデルになったり、昔は全国3連覇を果たした伝統校です。 埼玉県では中学と高校の決勝戦が同じ日の午前と午後に埼玉スタジアム2002でやっていたのですが、私が午前に中学の決勝戦を戦った日の午後に浦和南高校が決勝戦を戦っていて、高校生ながら埼玉スタジアムをお客さんで一杯にして試合してる姿に憧れました。 赤木:高校の試合でスタジアム満員は凄いですね。 高田さん:部員は3学年合わせると150人ほどいて、まずは監督に名前を覚えてもらうことから始まりました。「高田」と大きく書かれた白Tシャツを毎日着て練習してましたね。 その中でもレギュラーとしてインターハイの全国大会に出場する事ができました。 赤木:凄いですね。練習もかなりハードだったんじゃないですか? 高田さん:そうですね。ただ練習とは別に禁止事項も多くて、高校1年時はずっと坊主。学食禁止(お弁当持参)、炭酸禁止、カップラーメン禁止、ポテチ禁止と色々と厳しいルールがありました。 当時はそれが当たり前で何も思わなかったですが、今考えるとよくやっていたなと思います。(笑) 練習は朝練と放課後練習があって、高校ではナイター設備が有ったから夜まで練習してました。メンバーの仲がとても良く、全体練習が終わったあともみんなで主体的に練習をしたりしていました。 赤木:そういうの良いですね。 高田さん:選抜で一緒だったメンバーや対戦相手として昔から知ってるメンバーも多く、勝手にベクトルが合っていたんで。 赤木:サッカーの強豪校って言うと、他県から選手を引き抜いたりしているイメージが有るんですが、そんな感じじゃ無かったんですね。 高田さん:私立にはそういう学校も有りますが、公立高ではあまり無いですね。どちらかと言うとそういう私立の高校に勝つ事がステータスになってた感じもあります。(笑) 赤木:高田さんのお話を聞いてると、『サッカー』と『地域』って密接に関わってるのが分かりますね。サッカーが街の文化として根付いているような。 高田さん:高校生の試合でも家族・OB・地元の方が沢山応援に来てくれましたし、今でも仕事等で会ったりすると気軽に声をかけてくれます。皆がサッカーに関わっているような地域なので、近隣高の選手も皆繋がりがあり、大人になってから一緒のチームでプレーすることもありました。 赤木:地域がサッカーによってコミュニティになっている感じがしますね。 ▲高校時代の一枚 大学時代 高田さん:大学もサッカーの強いところで選びました。指定校推薦でしたが、関東1部リーグに所属していた強豪校でした。 赤木:人数も多かったんですか? 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